格好いい「しらせ」を無料見学
2012年1月、船橋港で一般公開を再開
「しらせ」は、もとは海上自衛隊の所属であり、文部科学省の南極観測に使用された。現在はウェザーニューズ社が所有しており、同社では「SHIRASE5002」というものを、正式名称として使っている。南極観測船、もしくは砕氷艦という特殊な船であるため、いろいろと経緯があったらしい。それはとても安価に購入できたものの、改修費がかなりかかったと伝えられる。
南極観測船は第一代が「宗谷」で(場所:お台場の船の科学館)、第二代が「ふじ」(名古屋港ガーデンふ頭)になり、「しらせ」は第三代になる。現に南極に行っているのは第四代「新しらせ」である。今現在では、「しらせ」は「SHIRASE5002」として、船橋港(正式には千葉港葛南区)のサッポロビール工場に隣接する埠頭に係留されている。
2010年5月2日から一般公開されていたが、東日本大震災で中断になり、2012年1月下旬に小規模ながらも再開した。そく聞するに、年間維持費が1億から2億円位いかかっているらしい。地球環境保護の教育と南極観測の歴史的意義を伝え、レーダーの気象観測も行っている。
見学は無料、完全予約制
見学は無料で送迎バスになっている。今の処は、一月二回で一回につき10名迄となっている。JR京葉線の海浜
幕張駅にて、定刻の集合をする。それは、完全予約制であり定員少なく、予約は満杯の状態が続いている。詳細は、この http://shirase.info/ をどうぞご覧下さい。
(上記リンク確 認: 集合場所と日時に大幅変更あり)
予約の時間帯は一つのみで、12:30迄に同駅に集合する。全体で見学に要する時間は、約3時間程度である。
注 意
ここは港の埠頭であり、許可なく自動車での
乗入れは、厳禁となっております。
副 Kancho が、有名な三浦雄一郎氏
SHIRASEには、Kanchoがウェザーニューズ社の副社長である宮部二朗氏で、副Kanchoに、80歳エベレスト登頂(2013年5月23日現在)の、かの有名な三浦雄一郎氏が、就任している。
また、地球環境のシンボルとしてなるまでの間、逸話としていうならスクラップになりそうであった「しらせ」。だが鉄屑価格の低迷でその機会が無かった時期に、これを引き取っている。紆余曲折あっての末、という事だろう。
そして、「しらせ」に新たに設置した同社のレーダーとしては、「WITHレーダー」というものがある。
同社はこれで首都圏の、ゲリラ雷雨や突風を観測するという。レーダーサイトの半径では50kmをカバーするものであり、気象予測に使われてでの活躍が、これから大いに期待されている。
一方では、船内においては地球の環境保護の教育の施設も用意されており、子供たちや大人への環境教育を行う事が、出来るようになっている。
南極観測船・砕氷艦しらせの経緯と歴史
この船について
所管の文部科学省は観測船、防衛省では砕氷艦という。南極観測船しらせ5002は、先代ふじ5001の後継艦として建造されている。艦の排水量が1万トン級であり、海上自衛隊のなかでも大型艦であった。当時の所属としては海上自衛隊であるが、文部科学省での使用目的が、南極観測という平和利用に限られていた。自衛官が艦の運航を行い、南極へ観測員を乗せていく事になる。
従来よりも、居住性は快適であるという。観測隊員は特に優遇されており一室2名の生活だが、自衛隊員はそれが6名での生活という。人員・物資の輸送が主な任務であるが、氷山をはじめ危険この上ない。因みにタイタニック号は1912年4月15日、氷山に衝突し沈没している。
砕氷艦ならではの装備がほどこされており、船首は海面の上に横に突き出たような格好をしている。これは、砕氷するための形であるらしい。能力としては、1・5mまで
の厚さの氷を砕けるという。内部には特殊な機構を装置して、砕氷していくハンマーヘッドの船首なのだそうだ。
日本の誇る造船技術に加えて、そして科学技術の粋を集めてでの艦の建造がなされている。日本の国では、大型軍艦を建造できない事と、鑑みれば如何なるのだろうか。
略 史
1981年3月5日に日本鋼管の鶴見で起工、同年12
月11日に建造完成し、進水した
1982年11月12日に海上自衛艦へ就役する
1983年第25次南極観測へ就役始る、2008年の
第49次観測まで25回の任務についた
2008年7月30日に海上自衛艦を退役した
2009年10月にウェザーニューズ社に引渡され同社
の所有となる
2010年5月より千葉県の船橋港での一般公開が始る
2012年1月より大震災で中断の一般公開を再開した
性能の諸元
基準排水量11,600トン
全長134m 全幅28m 喫水9.2m
最大速度19ノット 30,000馬力
ディーゼルエレクトリック3軸推進
航続距離25,000マイル(15ノット)
乗員170名 観測員60名
ヘリコプター3機
ペンギンは、のどかに
南極の氷原に「しらせ」が背景となり、ペンギンがいかにものどかそうに見える。地球環境の象徴といえば、言えなくもない風景である。垣間見えたひと時、南極の美しさと厳しさのコントラストだろう。そして、極地での太陽の景色がある。
▲ ペンギンと「しらせ」 ▼ 南極の太陽 (白夜かどうかは解りません)
越冬、癒しのペット、氷床深層掘削
南極観測では、一年間にわたり越冬をする者たちを「冬隊」という、しない者たちを「夏隊」といい半年間の滞在になるという。越冬隊長は観測隊副隊長が兼任し、『昭和基地』もしくは『ドームふじ基地』が越冬観測の主体になるという。基地は全部で四つあり、加えて他には『みずほ基地』が、昭和基地とドームふじ基地との中継点になる。そして『あすか基地』は、無人の気象観測である。
第一次越冬隊には、縁起物と癒しのペットで、三毛猫の雄「タケシ」やカナリアが越冬したという。タロやジロの犬ゾリの耐寒犬は、言うなればペットではなく労働する犬である。それが、今では越冬の癒しのペットは何んだろうかと、思いを馳せてしまうのである。
越冬生活では、居住棟の割当が一人約13㎡(4畳)の室になり、バス・トイレは共同。床暖房が完備していて、室
▲南極の温泉湧出の近くにいる、ナンキョク オットセイ。
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ビデオは下方へポインタ ▲ 南極での、しらせ砕氷航行。
温が保たれている。公衆電話は管理棟にあり、自費だが日本へ電話をかけられる。バーもあるが、隊員の当番でバーテンダーをこなすという。食事は、調理師免許を持つ隊員の指導の下で、各隊員の交代でつくる。越冬も後半になると、生野菜や果物が不足してくるという。
基本的に隊員は自分の身の回りから全般にかけて、自分自身で生活をこなすものである。南極には病原体というものが存在せず、風邪はひかないものだという。もち論、南極へ出発する前には、風邪、水虫、虫歯にいたるまで、完全治療しておく事になっているらしい。防寒のためか、ヒゲをはやしている隊員が多い。また丸刈り坊主頭にしておき、帰国まで散髪を行わない隊員もいるという。
一方、氷床深層掘削計画というのがある。これはドームふじ基地において、地下3000mの氷床コアというものを掘削採取するという。この採取された氷床コアを分析することにより、地球の過去100万年間の気候変動が判明するという計画である。これらは地球の環境保護に関わるデータになるもので、大いに研究成果が期待されている。
白瀬中尉は明治の冒険家
明治時代に日本人として、初めて南極の探検観測をした人を知っているか。それは、白瀬のぶ中尉という人だ。事実上その偉業を讃えて名前を冠されたのが、第三代南極観測船のしらせである。現在では民間会社の所有になり、SHIRASE5002という名前になっている。そして昔の帝国海軍では、船に人の名はつけない慣例があり、現代でもそれにならっている。そこを便宜的に、南極にある地名の白瀬氷河に因んで、という方便でもって命名している。その伝統を受け継ぐ海上自衛隊は、そうしたらしいと伝えられる。
コロンブスの卵となれ
現代とは大きく事情が異なるものの、彼は冒険家として認識すべきだろう。それは、栄誉を求めるものではなく、やりたい事を行う冒険家という一面をのぞかせる。南極探検というのは、大時代な行為と見えるが、そうであろうか。遣りたいから遣った、そんな冒険の様子がよく見て取れる。夢とロマンからの、誘いだったのか。
その南極探検は、緻密な計算にもとづくものでなかった。財政的な裏付けをはじめとして、探検の進むべき目標の地点は大まかなもので、大陸としての南極には到達できなかった。しかし、白瀬中尉のその偉業とは、はじめて日本人として南極へ行った事であろう。当時の日本人の認識とは、地図でしか解らなかった地球の極地、南極大陸である。コロンブスの卵となれば頷ける。
最も極地への南極探検は成したけれども、その後の苦労はとても大きかった。その生涯の大半は、借金返済のために費やされたと、いっても言い過ぎではない。
白瀬中尉
開南丸
蒼き夢へひた走ったか
今とは大きく違う時代であった。何せ船といっても、帆船に毛が生えたようなもので、南極おろかその近くまでをも到達不可能だと言われた。船を見つけるのが、大変だったらしい。ようやく見つけても、お金が元々ありはしない。苦労と困難は、続いていった。
当時における南極とは地図に存在しているもので、日本人には想像がつかないものだった。しかし、白瀬中尉は粘り強く運動していき、資金集めもどうやらなんとかなったらしい。見つけた船が旧知のもので、新たに「開南丸」と名づけられて、着々と準備を整えていった。
あまりにも無謀である、というのが一般の意見の大勢であった。しかし、その軍人(探検家、冒険家)のとつとつとした態度と熱意は、好感をもたれたという。構想は彼自身にあったものの、計画がはじまるまでに相当の期間を要した。船の次は人員の確保である、だが前述のように困難を極めた。それでも彼の熱意が好感され、次第に陣容は出来上がっていった。思えば蒼き夢へ白瀬中尉は、ひた走ったのではないのだろうかと。
南極探検は、百周年を迎えた
2010~12年には、白瀬中尉の南極探検から百周年を迎えた。記念行事も行われているが、先駆者への評価はどうなのであろうか。一人の日本人、明治の冒険家として評価すべきだろう。国威発揚の時代も、過去にはあった。しかし、その明治の冒険家、という意味ではない。偉業を再評価する、いい機会ではないのか。帝国陸軍軍人として中尉であった彼は、幼い頃から極地探検への情熱は篤く精進したという。当時の人々からは、たとえようもない探検への情熱が、しのばれるであろう。
1910年(明治43年)11月28日東京の芝浦埠頭を出港し、1911年2月8日にニュージーランドのウエリントン湾に入港するも、悪天候などの理由で同年5月1日にオーストラリアのシドニーに引き返した。
1912年1月16日に南極大陸へ上陸、その地点を「開南湾」と命名した。極地の到達へは適さなかったため、ロス棚氷・クジラ湾より再上陸し、1月20日に極地の到達点へ目指し出発した。
だがしかし、1月28日に事情やむなく、南緯80度5分、西経165度37分の地点に旗を掲げた。ここは大陸ではなく、氷上であったという(後に判明)。深慮の上、帰路の食料などの関係でこの地点になったものである。ここを「大和雪原( やまとゆきはら )」と命名している。これは後世にのこる、歴史的な事だった。
大和雪原
冒険の代償は、苦難の借金返済
南極探検のために援助する目的の後援会が、まったく逆に白瀬中尉を苦しめる事になった。その後援会の幹部が、探検のための資金を使い込みをして遊興費に使ってしまった、という事件があった。探検に参加した、隊員の給料さえ支払えなくなってしまった、という。そうでなくても、資金は不足していた。南極探検のためにではなく、使い込みで借金がふくらんだ。つまり、それを背負ったのは、白瀬中尉である。その金額が、当時で数万円(2012年現在で約一千倍超)になったという。
冒険の代償ということか、白瀬中尉の苦難のはじまりである。家財を売却し転居につぐ転居を重ね、実写フィルムをもって娘と共に講演をして回った。日本はもとより、台湾、満州、朝鮮半島にまで周り借金返済にあてたという。それで20年の年月を経て、南極渡航の借金を返済。1946年(昭和21年)9月4日愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)にて逝去、享年85歳だった。
なお記すならば同年6月に、当時の日本における占領軍の最高司令官であったマッカーサーへ、南極の領土問題で手紙を送っている。それは自らが到達して、国際法上有効になった南極の領土の事である。南極探検の業績においてでは、認めているという返事をもらっている。